2011年1月12日

写真は死んでいくのか

明けましておめでとうございます(*゚ー゚*)

お正月から成人式やお宮参りの撮影をしていました。久しぶりの友人から電話なんかもあって小さなコミュニケーションも少し楽しんでおります。

さて。

昨日は講師の仕事で一日を消化。夕方からは写真関連企業の社長さんとお話をする機会があったのでいろいろな情報交換や今後の「写真」というものについて少し議論をしました。内容はオフリミットですが、こちらの議論は積重ねていけばなにかしらの進展が見込めるかもしれません。。。

業界としての「写真界」は混沌としていますから。いきなりこんな記事も密かな話題?ですし。

年明けそうそう迫力のあるタイトルです。。。



これは1月10日の朝日新聞GLOBE第55号「写真は死んでいくのか」の紙面です。
小難しい話ですので超割合しますが、デジタルカメラやインターネットなどの普及でビジネスとしての写真、プロとアマチュアの壁がとりはらわれた写真家、そして「写真」そのもののこれからをテーゼにたくさんの写真家がコラムを綴っています。

機材面の技術はビジネスのためにカメラメーカーが進化の脚を止めることはなく、結論としてはタブーも払いながら突き進むので、画像になりはてて枠に収まらない写真というものをこれからはどのようにとらえるのか。。。
まぁ、私が大学で学んでいたときにはフィルムの世界にデジカメが勢力を伸ばしはじめたのを目の当たりにて、察しのいい学生ならばデジカメであろうと、画像処理だろうとそういうのは「時間の問題」だと感じていた人も多かったと思う。
ある意味、フィルムにはかかせない技術の壁(既得権)が崩壊し、デジカメが安価に流通した時点で一度終わりをみていると思う。 でも、本当の意味で「写真」を見つめていた者ならば、デジタルになんの抵抗もなく機材や環境も無視して「本当に求めるのは私に必要な写真」であるという考えを持っていたと思います。私もそうだったし、そういう人はきっと今も写真を続けている。困るのはやはりプロと呼ばれる人達だろう。職業としては厳しいと思う。ただ、この波は法律などで規制をかけるでもしない限りは大企業の資本とアマチュアに振り回されることは避けられない大きな波である。しかしデジタル化と同時に、画像処理などもやりほうだいなので写真事態の寸真実性や価値が陳腐化されていることにとくに不安をおぼえます。

なので、今の世界は秩序というセーブがきかないから、しばらくは欲に飲まれるだろうな~と思います。

話は戻り、とくに私の目にとまった記事は写真家「十文字 美信」 先生の言葉だ。

写真がなくなることはないと考えている。
「写真は悲しみだよ。これは写真だけがもつ特性だね。一度撮影したら、切り取ったその瞬間は過去になる。二度と同じものはない。それが悲しい。でも、嫌いではなく、むしろ楽しい。ノスタルジーを感じたり、被写体へのレクイエムを奏でる気持ちだ」記事参照。

実は私がHEARTLAND KARUIZAWA DRAWING BIENNALE 2007で受賞したときに審査員をしていた先生なんだけど。人生において、一通り「写真」というものを見てきた者の言葉だと痛感するし、先生の写す心が伝わる内容だった。当たり前のこの繰り返しの行為が。。。

時代というものを当然として受け止めながら腰を据えて「写真」を見つめている。
フラフラせずに写真の中身についてブレないようにしながら、写真というものをしっかりと見据えることが必要だと思った。