明けましておめでとうございますm(・ω・)m
早いもので2017年も松の内です。
三箇日は御節を食べ、そして勉強に励みました。
ちなみに昨年末には懐かしい御仁がお越しになられまして。
昔お世話になりましたとても有力なフォトギャラリーのオーナーとディレクターです。
ご無沙汰ではございましたが、変わらずお元気な表情を見せて頂けただけでも嬉しく感じた一時でした。
お互いの近況や写真について語らいましたが、写真を取り扱うことの難しさについての認識が色濃く伝わるものでした。どちらかといえば社会派の写真作品を主体に、写真家の育成面に奮闘したり、海外でのレヴューや作品の販売にいたるまで多岐にわたります。
まぁ、かくかくしかじかということで、少しお話を飛ばせていただきますが。
写真という分野には大まかに記録性と創造性の領域があると仮定いたしましす。記録性の領域には私の仕事でもある記念撮影であったり、あるいは社会の真実(現実)を伝えるメッセンジャーのような役割も内包されているとします。
一方、創造性の領域には今までにないような、心で想像したものを誰にでも視認できる形として伝えるものとします。
ここまでは、単純に記録性と創造性を二つに分けたものとして説明しましたが、本当のところはもっと複雑です。私が思うに、これらは壁で隔たれているものではなく、現実には階層のように積み重なった存在としてとらえています。
例えば記録性も創造性も二枚のレイヤーが重なるように接触しており、例えば記録性を主体としながら、美術的な美しさをも兼ね備えることはある程度は可能だということです。
私の代表作である上野彦馬賞を受賞した作品「Paris」。
カーニバルのフィナーレを撮影した記録性に主眼を置いた作品ですが、ありのままの事実を伝えている作品でありながら、橋の向こうに隠された花火の部分や人々の視線の先には、写真を見る者に想像させる要素があります。古典ですが写真の王道です。
こちらは私の代表作「AIR」。
まとめると、記録性に重点を置いた写真と創造性に重点を置いた写真の双方には逆の視点も内包されているということが上げられます。
一枚の写真も単純なようでいて、とても複雑なものです。
そして、どうしてそういったものが人を引きつけるものでもあるのかというと。私の見解の一つとして「それは人の心が作用しているから」というのが単純明快な答えです。
無機質なまでに直視した写真は味気ない記録の媒体に成り下がります、反対にあまりにも創造性だけに偏ってしまっては写真の役目が薄れてしまいます。
そこで重要なことが記録性と創造性の両立。
写真の軸をそれぞれの領域に置くとしても、その二つの階層のなかで複雑にアクセスを試みる存在、ひいては相反するものを繋ぐ架け橋のようなものが撮影者の本分であり、人の心の役割であると考えています。
何せ写真(芸術)は人の心を写したものですから『写真家⇔作品⇔受け手』という関係にて成り立ちます。
作品を介して、それぞれの心が通じ合えれば一分だと考えます。
ただし、美術品としての評価(作品を欲しいと思わせる価値)を勘案すればそれとは別のより厳しい高次が存在すると思います。
話は少しそれましたが、役割の一つとして写真は社会を写し出す鏡のようなものであり、社会のありとあらゆる事実(現実)を克明に伝える力もあります。
美術的なものとはおそらく対称的である社会派の写真は、社会の問題を提議する道しるべのような存在です。しかしながら問題提議そのものの重大性を感じることはできても、それが金銭との等価交換を要するような形で人々が作品を欲しないのは仕方の無いことなのかもしれません。
ニュースのソースになるような等価交換は成り立ちやすいとは考えますが、美術品としての枠には収まりづらいと考えます。
少なくとも現状ではそういった魅力を求めるコレクターは大多数ではないと考えます。もしかしたら時が流れれば、過去の貴重な事象として、あるいは思想的な合致を得たコレクターにとっては価値が見いだされるのかもしれませんが、これはシンボルとして手に入れたいということです。
人は自分たちの目前に関わってこない限り、社会の問題、または将来に問題となってくる事案には無関心を決め込むところがあります。
本来は応援できうる立場の者であっても、自身の意向としてその責任と義務を果たそうとしない流れがあるのかもしれません。現状の主だった主義は権利も資本も自由で良いのですが、自由であることの意味や責任を忘れていることに気づくことは極めて稀です。
ただ、それもけして善し悪しの物差しで結論づけるものではなく、社会問題の提議となる写真と、そういった層に対して等価交換して頂きたいと感じさせるような価値を見いだせていないという現実が存在すると考えます。
私は自身の道として美の追求に焦点を合わせるために(私の本分ですので)、偏りのある政治問題や社会問題にはあえて距離を置いている部分はあります。しかしながら、美しさを守るという意味において、社会の問題には感慨深い認識を常に抱いております。
等々のようなことを来客の御仁方と会話をいたしておりました。
詰まる所、人の何十倍も努力して、困っている人も救い、写真に対する愛情も私などよりもずっと深く、当然ながら知識、見識においても優れている彼らでさえ悩みを抱える問題なのです。私から見れば写真という難しい分野であるにも関わらず、何も恥じることのないくらいに十二分なご活躍をされていると思いますが、未だに目的はまだ達せられていないのでしょう。
御仁方が写真というもので幸せを実感できるような社会に向かうことが、私の幸福でもありますので、微力ながらできることは致したいと考えております。
当たり前だった道徳が希薄で相手に対する思いやりのない人が増えてしまった窮屈な世には切に願いたいところです。
小難しいこともありますが、何よりも再会できたことに喜びを見いだしております。
三箇日は書斎でデミタスを楽しみながらそんな思いに耽っていたのでした。
しかし、あれからもう七年。。。そういえばオートバイに復帰したのも怪我から七年。
その前の出来事も七年。
人は何か事を成す度に始まりがあり、そして結果が導き出される。
どうやら私の因果は七年の間隔で変化を迎えるようです。
良きことも、哀しきことも。
一度目は偶然。
二度目は端緒。
三度目は運命。
啓した先輩の言葉ですが、はたしてどうなるのか。
どちらにせよ、今年もしっかりと前へ進みたいと思います。
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